その後、転々流遊の旅を続けて、静岡にいたり石州流家元の吸露軒宗匠に就きました。その際手にした甲斐古流の山口素堂先生の遺墨から大いに悟ることがあり、その遺蹟を求めるため、明治三十年、甲府に赴き表千家の大家の薦めで「甲新山古流」として甲斐古流の再興を図るに至りました。
「善しとほめ、悪しといさめて難波江の 学びの海に問い交わすため」
という心境を根本理念として門下を指導する一方、さらなる研鑽をつんで草木自然の理を究めました。大正三年、東京にて甲新山古流から現在の「日本古流」へと改称しました。
「いけばなは偽りをなきを道として 己が心を映すものなり」
の一首は、一世家元が永年の華道修養の末に到達した究極の境地を示すものといえましょう。