一世家元による創流


明治時代に入ると、欧米文化を取り入れようとする文明開化の風潮が高まり、これまでの伝統的な物事を軽視する傾向が強くあらわれました。いけばなもこの影響を受けて、華道界全体が衰退してしまいました。

そのような世相の中で、一世家元角田一忠は確固たる意志をもって華道の研鑽に努め、明治三十三年に当初「甲新山古流」と呼称して、本流を創流したのです。

一世家元は本名を忠三郎といい、松梅斎楽華庵と号しました。明治十七年、群馬県で誕生しましたが、生家は農業のかたわら蚕糸機業を営んでいました。

一世家元の厳父、角田万作翁は明治八年から三十六年までを能吏として勤め上げたと伝えらています。政治と科学を趣味としたといわれますが、特に科学的な研究には目を見張るものがあり、当時すでに、いけばなの美の神髄を数学的、幾何学的に追求し、その文献が現在も秘録として残されています。

その万作翁の計らいにより、一世家元は早くも九歳にして、正風遠州の松雲斎一里先生の門に入り、華道を学びはじめました。万作翁は、その後も陰に陽に一世家元を支えていますが、日本古流胎動期の功労者として大きな存在であったといえましょう。

一世家元は松雲斎門下で七年間学びましたが、一里先生が物故されると、直ちに青山御流の晴月園先生に就いて、四年間に及ぶ研鑽をつみました。厳父の薫陶を受け、弱冠で華道の奥義に達するという才能に恵まれていたといえましょう。

その後、転々流遊の旅を続けて、静岡にいたり石州流家元の吸露軒宗匠に就きました。その際手にした甲斐古流の山口素堂先生の遺墨から大いに悟ることがあり、その遺蹟を求めるため、明治三十年、甲府に赴き表千家の大家の薦めで「甲新山古流」として甲斐古流の再興を図るに至りました。

「善しとほめ、悪しといさめて難波江の 学びの海に問い交わすため」

という心境を根本理念として門下を指導する一方、さらなる研鑽をつんで草木自然の理を究めました。大正三年、東京にて甲新山古流から現在の「日本古流」へと改称しました。

「いけばなは偽りをなきを道として 己が心を映すものなり」

の一首は、一世家元が永年の華道修養の末に到達した究極の境地を示すものといえましょう。

1930年(昭和5年)5月 一門の幹部

 初代家元の最も活動された58才の時、丸ビルで花展が開催された。写真はその記念写真。向って右端が二世家元、後列には小堀一効、塚原一兆家元顧問、3列目左から2人目に三世家元の若き日があります。

一世家元の作品